みたらし垂らした人たらし

だいだらぼっちは今日も歩く

東京の大学生が日常にあれこれ言うページ

なんでいつまでもできないの!もっと頑張りなさい!だらしがない!クズだな!など精神論第一主義的アドバイス廃止の提案

ADDやADHDは障害とされるが、私は苦手くらいに捉えれば良いと思う。どんな人にだって苦手な部分はある訳で、たまたまその苦手をパターン化するとADHDなどの一つのパターンが一部の人に共通してあてはまるということだ。
ここで重要になるのは、そのようなパターンを多くの人が知り、理解あるコミュニケーションを取るということである。人々の中には脳の一部が未発達なために、多くの人が卒なくこなせる行動を取ることに非常に苦労したりまたは、することができないということだ。本人は、自分では改善したいと思っていることが多いのにも関わらず、例えばADHDやADDの知識がないだけで精神論で頭ごなしなコミュニケーションを取ってしまう人がいる。もちろん私も、知識がないためにそのような言動を取ってしまったと思う節がある。
日常で人とコミュニケーションを取っている時、その人が強い不快感を示したり、あるいは、笑う場面で笑わなかったりする場合、そこには必ず理由があると考えることが大切だと思う。そのような、センシティブなことはその場で話しづらいことが多いので、しつこく何度も誘ったり、やる気がないとか根性がないという暴言を吐いたり、変なやつだよなとからかったりしないことだ。
横並び主義、みんなできてるのに、なぜあなたはできないの!などと担任が生徒に向かってさも正当性をもっているかのごとく暴力をふるう日本では残念ながら、特に教育の場において多くの子どもや大人が傷ついている。また、精神論に囚われてしまって、自分が怠け者だからとかクズなんだと自分を責めてしまう傾向にある。
もし自分自身について何か疑問に思ったら、まずはGoogleで検索をして知恵袋を除いたページから情報を得てみることを勧める。友人や家族に相談することも有効な場合があるが、多くの場合は軽く受け流されてしまうので、なるべくならその道のプロに尋ねることをおすすめする。小中高生にこのような視点を与えられる教師がもっと増え、精神論を語るアホ上司が絶滅し、大切な命が失われたり苦しんだりしないこと切に願う。そして、私も他者理解をもっとすすめ、理論的な会話、相手を思いやるコミュニケーションを肝に命じたい。が、なかなか難しいものだ。。。

みんなで21世紀の日本の性解放運動を起こそう

多様性のある社会をなぜ私が求めるかといえば、ある観点からみれば社会的弱者である私が暴力にさらされるのが怖いからだ。僕はセクシャルという観点で言えばマイノリティにはいる。だから、これまで、ひどいことをたくさん耳にし、目にし、傷ついてきた。でももっと傷ついたのは、私が傷つけた相手に「傷ついた…」と言えないこと。そして、相手が私を傷つけたと知らないこと。

 

痛みを伝えられないことほど、辛いことはない。あなたが、怪我をした時、とってもとっても痛くて辛いのにそれが相手に伝えられないし、その不自然さを隠すために無理に笑顔を作るそんなことを想像してみて?それって辛いでしょ?

 

でも僕は、こちらの世界で楽しんでいるし、そんなに辛いって思わない。たまーにぐさっとくるけれけど。僕が求めることはセクシャルに対してみんながもっと、柔らか頭になればいいのになぁってこと。僕が傷つくのは多少は我慢するけど、でもセクシャルによっていじめられたり、不遇に合わされるのは絶対にあってはならないと思う。セクシャルに苦しんで自殺してしまうケースもあるんだって。

 

何の罪もない人が苦しめられるのを、暴力という。そして、社会が1人の人や特定の集団に暴力を振るうことを、構造的暴力という。もっとみんなが性に関して勉強していれば、その命は失われなかったかも知れないんだよね。

 

文部科学省は10年ごとに教科書の基本的な指針の大きな改訂をする。残念ながら、その中にLGBTのことは盛り込まれなかった。残念というか、これは暴力だ。今社会で起きている暴力を横目で見ながら、政府はその暴力に加担した。

 

ナポレオンが市民に与えたものは、啓蒙思想だ。日本政府は国民に、多様な性に対する啓蒙をわざとしなかった。国民の理解が得られないだろうというタテマエだけど、僕から言わせればここには日本会議さんとか右翼の力が働いていると思う。全く古いよね。戦後レジームから一番脱却できてないのは安倍晋三さんあなただと思うよ。

 

でも日本のみんながもっともっと関心を持つことがあれば、政府だって教科書に慌てて入れると思う。常識ってのは5年、10年で大きく変わるんだ。だから僕にできることは、性の多様性を認めようよってちょっと友達に話してみること。そして、セクシャルをネタにしたジョークでキャッキャおかしいねって無理に笑わないこと。断固として、暴力に手を貸さないってこと。僕からの宣言だよ。

あー死にてぇ

よく死にたいって言う人いますよね

僕の死にたいは、その程度の死にたいではなく、今この場で窓から飛び降りようとか、通過する電車をみて飛び込んでみようかなと思う死にたさな訳であります。

問い詰めていくと、私の死にたいも死にたいわけではないということ、そんなことは知っていますが、私の今の気持ちを表すのに、死んでしまいたいという言葉以上にフィットするものはないのです。

希死念慮です。私の根底にはずっと死ぬという願望が流れている。

友人数人に尋ねてみましたが、意外にも自殺願望をもっている人は少ないのですね。自殺したいと一度でも考えた人が少ないのを知って驚きました。

一度死ぬということについて考えるのはよいことです。なぜ生きているのかという疑問も同時に浮上し考えさせられるからです。

死にたいと言われたら、つらいんだね。どうしたの?と聞いてあげてください。決して、そんなこと言うななどと否定しないように。死にたいなんてあなたに本気で言ったら、きっと困らせてしまうって思いながら勇気を出して相手を選んで言ってるのですから。

自殺者がこれだけ多いのに、自殺願望をもっている人に対してどう接すればいいのか知らない人が多い。当たり前ですね。教育していませんから。

書いているうちに気持ちが落ち着いてきました。私が死んだらこれがニュースで報道されるのでしょうか?

自殺する人が減ることを祈っています。

福島に思いをはせて

ずっと投稿していませんでしたが、2016年の夏に福島に行きました。大学の有志が集まり、仮設住宅の方々と交流、その後に飯舘村の現状をバスツアーするという一泊2日の企画に参加したのです。

思うことがありすぎて、どの点から述べていいか分かりませんでした。
みなさん震災のことを話されるとき、さっきまで笑っていたのに急に悲しそうな顔になります。当たり前ですね。5年が過ぎてもその傷は癒えないのです。「私もテレビでヒサイシャを見てきた。他人事だと思ってた。当たり前がある日突然当たり前で無くなる」そう住民の一人は話してくれました。

陰陽で書くとして、まず陽の部分。それは福島の方々は本当に強いということ。驚きました。みなさん本当に笑顔が絶えない。とっても元気です。飯舘村を見学した際、立入禁止区域の手前で私たちはバスを停め外に降りました。バスに帰ると、「みんな放射能たくさん浴びたか?」と住民の方。ブラックジョークか、ジョークにでもしないとやってけないのか。。。僕らにとってはとてつもなく重い一言でした。目に見えないのです。浴びたかも分かりません。においもしません。たくさんの大人が目に見えないものを必死に取り除いています。線量計でもなければ、そこにあるのは雄大な自然ただそれだけなのです。

と書いているうちにも陰の部分に。。確かに一歩ずつ着実に復興は進んでいます。しかしながら、もう数百年先まで住めない地域もあります。原発は住む場所とそこにあったコミュニティを破壊しました。誰にも直すことはできません。若い世代は全国各地に散らばり、新たな仕事を必死で見つけ、新しい生活にシフトしている方が多いです。福島に残っているのは、高齢の方。私が訪れた仮設住宅もみなさんご高齢でした。その仮設住宅も、6年の月日が過ぎ、取り壊されます。仮設住宅にも、震災からずっと築き上げてきたコミュニティがあります。それもまた、壊されます。なんて勝手なのでしょうか。(もとの場所に戻れる人もいるのだからいいじゃないかって?戻る場所がない人もいるのです。今の交友関係がバラバラにされる、国に振り回されるのをイメージしてください)

僕はとてもとても痛くて苦しいのです。ズキズキします。取り返しのつかない事故が起きてしまったのです。でもなんだかおかしい。まだ原発廃炉にしないし、また動かしている。分かります。エネルギーの話。きっとこう言ったらたくさん批判される。でも、頭おかしいんじゃないの?狂気じゃないの?そう問いたい。あの事故を起こして、まだ原子力発電を続けるかと。僕がお会いした仮設住宅のみなさんの前で、どんな理屈を並べても再稼働した方がいいなんて言えません。原子力ムラで洗脳され、人質にとられ、土地を奪われ、捨てられる。これは紛れもない暴力です。

原発に大賛成の方。いらっしゃいましたら、一度福島に足を運び、被災された方と話してみてください。
飯舘村でこの目で見てきました。おぞましい数のフレキシブルコンテナバック、通称フレコンバッグ。立ち並ぶ除染作業中の蛍光色ののぼり。見かける人は市民ではなく、除染作業員。端的に言って、異常です。ゾワゾワします。世紀の大事故が私の生きている今起こったんだということ。

復興が進んだ?一体どこの誰がそう言ったのか。
原発を再稼働させるメリットが見当たらない。
あなたはどう思いますか?後世に伝え続け、こうして訴え続けること。それが今僕にできることだと思います。