みたらし垂らした人たらし

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東京の大学生が日常にあれこれ言うページ

人の表情のはなし 電車ミュージアムにて

私たちの顔にはいくつもの細かい表情筋というのがついていて、その一つ一つが精密に機能することによって、ありとあらゆる感情を表現する。人間ほど朗らかで滑らかな表情を作り出せるロボットは未だ誕生していない。(ただすごく進化はしている)

 

この表情はいくつものパターンがあり、大雑把に分類することはできてもそのすべてを学術的に定義することは不可能だと考えられる。というのも、一人一人もっている表情筋や骨格、筋肉の発達度、その人の性格など様々な要素が相互に影響し、その人の表情となるからだ。

 

この複雑な表情を読み取るのが苦手な人も世の中位はいる。アスペルガー症候群発達障害を持つ人は表情を読み取ることが難しい傾向にあると言われている。ただ健体者(スーパー猛毒ちんどんの代表の方が使われている言葉。健常者より私は好きなのでこちらを使うことにする。解釈が間違っていたら、申し訳ない)の中にもこの傾向がある人がいると私は思う。表情を読むというのは意外に難しいのだ。

 

例えばこんな場面を想像してほしい。あなたが好きな人と2人っきりになって、あなたは意中の人に「好きな人いるの?」と聞いたとする。その後あなたのマドンナは、一瞬言葉につまり、そのあとこう言う。「別にいないけど?(にこっ)」教室に友だちが帰ってくる。その真相をあなたは確かめることはできない。

どうだろう?マドンナの数少ない情報から彼女に脈があるかあなたは必死に考えなければならない笑

このように、非言語コミュニケーションはたくさんの可能性や解釈の仕方があり、とてもおもしろい。人の表情を細かく描写するのには限界があるし、またそれに挑戦する面白味もある。

 

話がまたそれてしまうが、日本人はこの表情を文字のツールで表現することに挑戦した人たちだと言える。例えば日本のガラケーに用いられていたキャリアの顔文字は、MOMA美術館に展示されているのだ。そして今日でも我々はその顔文字に加え、絵文字からスタンプといったツールを実に繊細に使用し、文字によるコミュニケーションに非言語コミュニケーションまでをも取り入れようとしているのだ。( ͡° ͜ʖ ͡°)

 

私が一番伝えたいことをやっと述べようと思う。私は毎日学校に通学する際電車を利用している。また休日も電車に乗って都心に出る機会が多い。電車の中は言い換えれば、ヒトミュージアムであり、表情ミュージアムだ。今日電車に乗っていたら、眉間にシワを寄せているメガネをかけた中年男性と3歳くらいの親子に出会った。父親は黒いダウンに、花粉対策のメガネをかけ、ジーンズを履いていた。買い物帰りなのだろう、袋と箱に入った靴をもっていた。お父さんは常に険しい表情で、子どもは大人しく座っていた。

 

電車を乗り換えると、そこには別の家族が座っていた。お母さんと、母方の祖母と、小学校2年生くらいの娘、立ったり座ったり落ち着かない3歳くらいの息子の4人だ。こちらの家族は先ほどの父親と対照的だ。眉間にシワがない。私の隣に座っている人は恐らくその家族の身内ではないのだが、穏やかな顔でその家族の和やかな雰囲気を楽しんでいた。「あら、パンツが見えちゃってる」隣のおばさんが、三歳の男の子に話しかける。楽しそうである。

 

電車のミュージアムには今日もたくさんの人がいる。あなたは、どんな非言語コミュニケーションを取りたいか。あなたの眉間にシワが寄っていれば、すぐに伸ばそう。あなたの表情はそのままあなたの内面を表す。怖い人より優しい人に私はなりたい。