みたらし垂らした人たらし

だいだらぼっちは今日も歩く

東京の大学生が日常にあれこれ言うページ

私に見えている世界

とても興味深いトピックを見つけた!!

単純作業や面倒でつまらない仕事だと、どうしても注意力が続きにくいのが私たちです。
また、記憶を「ちょっと保存しておく」ための「前頭葉」のワーキングメモリーが、あまり広くない特性も持ち合わせているとも考えられています。
すると昔の失敗をさっと忘れることができます。
だから私たちは、「前例を無視して」「新しいアイディアを出す」ことに優れているのです。 

「うっかり」「ドタバタ」「飽き性」な自分を愛して育てる方法!~『「ADHD脳」とじょうずにつき合う本』 - 猫のメメとモエ より

 なるほど…私の頭はADHDのタイプに似ている頭脳を持っている。側坐核やワーキングメモリーの働きが一般的な人に比べ弱い。

上記に書いてあるように、ちょっと覚えるのが本当に苦手だ。どれほど苦手か具体的な例をあげよう。

例えば、最近だと春学期になり授業が全て新しくなる。教室も新しい教室で、大学になると自分のクラスルームを持たないため、すべての授業に様々な教室が割り当てられている。加えて、教室は一つの建物に集約されておらず、さまざまな校舎に教室がある。(私の大学の場合です)さぁこうなってくると私の頭は少し混乱する。なぜなら、教室の数がまず多いので処理しきれないし、それぞれ別の教室を与えられているから、次はどこだったっけと不安になる。

ここから本題だ。今日の1時間目の授業の場所はどこだっけ?と電車を降りたら確認を始める。人が雑踏としている中、足をとめ、荷物がたくさん入ったカバンをあさり、やっとファイルを出して、今日は206だ!などと確認する。階段を降りている時、私は心のなかで、「206。。。206。。。」と唱える。そして、スイカを取り出し、タッチをする。駅前の広場には沢山の人がいて、「あ、あの子美人だな。。あ!イケメンやぁ。。。」とか「良いファッションしてるな覚えとこ」とか「ここ工事始まったんだ!何が出来るのかな」と頭で考え始めてしまう。これはもう止められない。私の頭のなかで洪水のように溢れ出す。耳には人々の話し声が聞こえ、工事の音が入り、携帯ショップの店頭の音楽が入ってくる。

 

どうだろう。これが私の認識している世界である。すべての刺激を受け取ってしまうのだ。頭のいい読者ならお気づきのように、さっきまで唱えていた「206」はとっくにどこかへ消え去ってしまう。そうして、キャンパスに到着した時、私はこう思うのだ。「あれ、私はどこに行くんだっけ。確かさっき駅で確認したんだけど…。うーん。もう一回みよう!あぁ206だったか。そうだったかな。全然記憶にないや笑」などと一人でやっている。そして、エレベーターかエスカレーターのどちらにするのかという会議を一人で開き、やっとエスカレーターで二階についた時、私は、二階の何番教室だったかもう忘れている。ここでもう一度ファイルを出し「206か」と確認するのだ。(1ケタ目が回数で、残りの2ケタで教室番号が表されている)

 

大変でしょ?笑

だからこの世の中は行きづらいのです。部屋は、2階のリスさんの部屋とか、5階のキャンディールームとか名前をつけて欲しい。そして、2階のリスの部屋の壁には実際にリスの絵が書いてあるとかして、教室の見た目を差別化していただきたい…まぁできればだけどね。

 

先日の小説読解の授業で先生がおもしろいことをおっしゃっていた。

「この世界の認識は一人ひとり違っていて、全く同じという人は存在しない。しかし、世界は一応同じに見えてるとしてことを進めていく。そうでないとあらゆる物事を決められないからだ。しかし、実はあなたの見ている世界とわたしの見ている世界は少し違うのだ。このズレは様々なところで様々なズレを生じさせる」。

興味深い指摘である。同じものを見ているとみんな思っているが、実は違うものをみているのだ。この世界はすべて人によって認知されたものであり、残念ながらその認知を統一するようなシステムはまだ生まれていない。私はあなたの世界を見ることはできないし、逆にあなたは私の世界を見ることはできないのだ。