どこかの誰かが勝手に障害と決めただけで、それは本来個性なのだという話
まさに茂木さんが書かれている通りで、障害とうよりは生まれ持った特性、個性といえるのが発達障害だと思います。ただ取り違えてはいけない点は、一般的に容易にできることも、発達障害の方にとっては想像を絶するほど難しいということです。だから個性といっても、自分でどうにかやりくりできる個性というより、自分でやりくりしたくてもどうにかやっていくのに相当苦労する個性です。いや何も直す必要などないのですが。。。(ただ今の社会の枠組みにおいて、発達障害と診断されることによって初めて配慮が受けられる場合もあります。ですから、この枠組みにおいては発達障害という診断も悪いこととは言えません。しかしながら、発達障害も個性だという姿勢が欠けているのではないかという批判がタイトルに込めた意味です)
私がここまで丁寧に書いているのは、様々な人とお話しする中で未だに根拠のない根性論を語る方がいらっしゃるからです。お前はだらしがないとか、自分に甘いからだとか、クズだとか言って、問題を抱えている人と真正面から向き合えない方が残念ながら少なくありません。本当に残念。
この国における個人主義は、頭で分かっていても身体で分かっていない人が多いのです。もちろん僕もその1人かもしれません。個性という言葉が、その真の意味で使われるようになった時、人々が幸せになれるような、そんな気がします。
人に優しくできない社会病理
わたしは駅のアナウンスに敏感だ。
駅のアナウンスとか、宣伝とかは何度も耳にふるものなので、勝手に私たちの頭に住み着いてしまう。だからこそ、敏感に反応しなければならない。言ってることが正しいのか、その裏に何か別の真意が隠されてないか考えなければならない。
盲目の方が線路に転落し死亡する事故が起きてから、そのアナウンスは始まった。「手助けが必要なお客様はお気軽に駅係員にお申し付けください」「困っているお客様を見かけたら、大丈夫ですかとお声掛けをよろしくお願いします」…
僕はよくJapaneseは親切だって聞いて育った。でもなんかおかしい。親切なはずの日本人なのに、いい大人がいい大人に、手助けしなさい!と1日に何遍もスピーカーから注意している。これはもう社会病理だと思う。。。
困っている人を切り捨てる社会になってきた。なるべく面倒は避けたいという社会になってきた。助けたい気持ちがあっても、行動できない社会になってきた。
どうしてだろう?
僕はこんな風に考えた。
きっと国民が、誰かを切り捨てるマインドを持ってくれることによって得をする人がいるってことを。
か弱い小さな誰かの声を、拡声器📢を使った偉い人の大声で消してしまおうってことだ。
見ないようにしようってこと。
そんなものはないってことにしようってこと。
でもそれはなんか、まずいかもしれないから、取り敢えず録音したテープで助け合いの綺麗事流しておこうかってこと。
なんか悲しいな。みんなで手を取り合ってって教わった気がした。でもその大人たちは、手なんか取り合ってなかったんだ。蹴落としあって、首を絞めあってたんだ。
僕だってもう大人と言われる年齢になる。気がついたよ。大人って実は何か分かんないんだよ。子どもとそんなに変わらないんだ。でも大人が言ってることは、エライってしとけば、子どもが言うこと聞くから楽なんだ。
みんなもっと頭で考えよう。
心で感じよう。
なんか変だよ。とっても変。
言葉の定義を閣議決定する恐ろしさ
http://www.mainichi-kotoba.jp/2017/05/blog-post_13.html?m=0#QJTnBtM.twitter_responsive
言葉とは私たち皆が平等に持つべきものです。もし言葉が誰かの手によって操作されたり、制限されると、私たちの言葉が一部の人々の所有物になってしまいます。ですから、この閣議決定は言葉を一部の人が定義するというとても危険な行為と言えます。
例えば政府が、政府の利益になるように言語をどんどん閣議決定していくと、ある日私たちの身近であった言葉がとても遠い存在になってしまい、もう自由に言葉が使えなくなってしまうかもしれません。ですから、この閣議決定に我々は日々言語を使うものとして、そして、言論の自由の権利を持つ国民として強く批判しなければなりません。
閣議決定で総理大臣の呼称には様をつけなければならないなどとなるとどうなるでしょう。私たちの大切な言葉を誰かによって制限されること、言葉の定義が一部の恣意的な意味に変えられてしまうことがあってはならないのです。
現安倍晋三政権は、私たちから言葉を奪いかねない行為を平気でやってのけました。言葉は私たちの思考を形作るものです。私はこの閣議決定は憲法違反に値するレベルのもので、到底納得することはできないことを表明します。