みたらし垂らした人たらし

だいだらぼっちは今日も歩く

東京の大学生が日常にあれこれ言うページ

大学生よ己を持て-あぁ、かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂-

森友が出たときから加計学園グループについては一部で(というかちょっと調べれば殆どの人が言っていた)言われていたんですが、ここにきて朝日新聞がスクープを出したのでメディアで今大きく取り上げられています。

少なくとも私の友だちである皆さんには、ぜひとも今の政治について自分なりに考えを持っていただきたいと、そう思います。もちろん持っている方が多いでしょうが。難しくなんかありません。簡単です。大学の図書館に行けば大抵の新聞はそろっていますから、大手4紙くらいを読めばだいたいのことを掴めます。

大学の”友人”と話していて、残念でならない。「難しい」「よくわからない」「今生きていて何不自由ない」「ニュース見ない」「スゴイネ」「クワシイネ」......何のために大学に来ているのかと。

僕は今の政治にうんざりしてます。はっきりいいます。うんざりです。もう高2のあたりから薄々感じていました。なんか変だと。でも知識がなくて、確かな言葉で説明できませんでした。大学に入って勉強すると、どこがどう問題なのか、そしてどこは評価できるのか、だんだん分かるようになりました。なんでそんなに熱意を持っているの?と聞かれるかも知れませんが、それは自分自身の身に危険を感じているからです。「バカじゃない。自意識過剰だよ」そう言われる方もいますが、一方で「そうそう私も今の政治はなんだかおかしい気がするの。ちょっと新聞を読んだけど/ネットでみたけど/ある人が講義で言っていたんだけど」そういう方もかなりたくさんいます。

大学生として生きているのなら、今の社会について自分の意見を持たなければならない。それは賛成であっても反対であっても、あるいは調べてみたけど判断がつかないでもいいんです。ただ物事を思考する際には常に評価点と問題点を考える必要がある。当たり前ですね。問題提起、問題意識を持つ脳がないのなら、学ぶということができていない、あるいは大学生の学びをしていない、そういえると思います。

批判的思考でものを見た時に、社会に対して抱いた疑問があるからこそ勉強しているのではないでしょうか。こういう社会であってほしいという思いをみんな抱いていると思います。問題を明らかにして、そしてよりよい社会を作る、それが社会を成熟させるプロセスだと思います。

社会のムーブメントは必ず起こります。おかしいと思ったら、明日お友達とランチのときにでも話してみましょう。自分なりに意見を持ちましょう。僕も持ちます。社会を良くするためには、いつもこの結論です。一人ひとりが変わる必要がある。僕はこの行動が決して影響していないとは思っていません。だからこれからも続けていきます。迷惑だったら非表示にでもなんでもしてください。

あなたが友だちと加計学園についてあるいは森友学園の問題について気軽にどう思う?と話してみる、ラインで送ってみる、それは必ず社会に影響を与えます。私たちは選挙権を持っているんですから、知らないっていうのは有権者として恥ずべき態度です。

アクションを起こしてみよう。
ここ最近生きていて感じたことでした。

どこかの誰かが勝手に障害と決めただけで、それは本来個性なのだという話

まさに茂木さんが書かれている通りで、障害とうよりは生まれ持った特性、個性といえるのが発達障害だと思います。ただ取り違えてはいけない点は、一般的に容易にできることも、発達障害の方にとっては想像を絶するほど難しいということです。だから個性といっても、自分でどうにかやりくりできる個性というより、自分でやりくりしたくてもどうにかやっていくのに相当苦労する個性です。いや何も直す必要などないのですが。。。(ただ今の社会の枠組みにおいて、発達障害と診断されることによって初めて配慮が受けられる場合もあります。ですから、この枠組みにおいては発達障害という診断も悪いこととは言えません。しかしながら、発達障害も個性だという姿勢が欠けているのではないかという批判がタイトルに込めた意味です)

私がここまで丁寧に書いているのは、様々な人とお話しする中で未だに根拠のない根性論を語る方がいらっしゃるからです。お前はだらしがないとか、自分に甘いからだとか、クズだとか言って、問題を抱えている人と真正面から向き合えない方が残念ながら少なくありません。本当に残念。

この国における個人主義は、頭で分かっていても身体で分かっていない人が多いのです。もちろん僕もその1人かもしれません。個性という言葉が、その真の意味で使われるようになった時、人々が幸せになれるような、そんな気がします。

人に優しくできない社会病理

わたしは駅のアナウンスに敏感だ。

駅のアナウンスとか、宣伝とかは何度も耳にふるものなので、勝手に私たちの頭に住み着いてしまう。だからこそ、敏感に反応しなければならない。言ってることが正しいのか、その裏に何か別の真意が隠されてないか考えなければならない。

 

盲目の方が線路に転落し死亡する事故が起きてから、そのアナウンスは始まった。「手助けが必要なお客様はお気軽に駅係員にお申し付けください」「困っているお客様を見かけたら、大丈夫ですかとお声掛けをよろしくお願いします」…

 

僕はよくJapaneseは親切だって聞いて育った。でもなんかおかしい。親切なはずの日本人なのに、いい大人がいい大人に、手助けしなさい!と1日に何遍もスピーカーから注意している。これはもう社会病理だと思う。。。

 

困っている人を切り捨てる社会になってきた。なるべく面倒は避けたいという社会になってきた。助けたい気持ちがあっても、行動できない社会になってきた。

 

どうしてだろう?

 

僕はこんな風に考えた。

きっと国民が、誰かを切り捨てるマインドを持ってくれることによって得をする人がいるってことを。

か弱い小さな誰かの声を、拡声器📢を使った偉い人の大声で消してしまおうってことだ。

見ないようにしようってこと。

そんなものはないってことにしようってこと。

でもそれはなんか、まずいかもしれないから、取り敢えず録音したテープで助け合いの綺麗事流しておこうかってこと。

 

なんか悲しいな。みんなで手を取り合ってって教わった気がした。でもその大人たちは、手なんか取り合ってなかったんだ。蹴落としあって、首を絞めあってたんだ。

僕だってもう大人と言われる年齢になる。気がついたよ。大人って実は何か分かんないんだよ。子どもとそんなに変わらないんだ。でも大人が言ってることは、エライってしとけば、子どもが言うこと聞くから楽なんだ。

 

みんなもっと頭で考えよう。

心で感じよう。

なんか変だよ。とっても変。

言葉の定義を閣議決定する恐ろしさ

http://www.mainichi-kotoba.jp/2017/05/blog-post_13.html?m=0#QJTnBtM.twitter_responsive

 

言葉とは私たち皆が平等に持つべきものです。もし言葉が誰かの手によって操作されたり、制限されると、私たちの言葉が一部の人々の所有物になってしまいます。ですから、この閣議決定は言葉を一部の人が定義するというとても危険な行為と言えます。

 

例えば政府が、政府の利益になるように言語をどんどん閣議決定していくと、ある日私たちの身近であった言葉がとても遠い存在になってしまい、もう自由に言葉が使えなくなってしまうかもしれません。ですから、この閣議決定に我々は日々言語を使うものとして、そして、言論の自由の権利を持つ国民として強く批判しなければなりません。

 

閣議決定で総理大臣の呼称には様をつけなければならないなどとなるとどうなるでしょう。私たちの大切な言葉を誰かによって制限されること、言葉の定義が一部の恣意的な意味に変えられてしまうことがあってはならないのです。

 

安倍晋三政権は、私たちから言葉を奪いかねない行為を平気でやってのけました。言葉は私たちの思考を形作るものです。私はこの閣議決定憲法違反に値するレベルのもので、到底納得することはできないことを表明します。